語学力って何?

 やはり論議を呼んでいる「小学校英語必修化」。
もう以前に英語教育に関しては書いたんですけどね…
でも、改めて語ってみようかと。

 新聞の投稿欄とかには、ほとんどが反対意見だったとか。ほんと、ひどいよね。一般人の方がよっぽど分かってると思うんですけど?中教審で決まったことって、文科省は何の迷いも無く実行する傾向があるので、間に合わないのかな〜って気もしますが。
元々、昔から中教審は理想論だらけで、現場との温度差があるのは有名な話ですし。
まあ、まったく、相変わらずなのですね。と思わざるを得ないです…
 正直、「また始めたよ」っていうのが最初の感想でした。しょせん、子どもは実験台なんだね。私の親の頃から変わってないみたいだ。
そもそも「語学力」っていうものに対して、かなりの誤解があるように思うんですが。「上手に話すこと」を思い浮かべるけど、本当は違うと思うのです。

 「語学力」って言うのは、「読み書きが出来る能力」じゃないんですかね。話すだけなら、半年も海外に行ってれば出来るようになるでしょう。語学留学とかすれば日常会話は誰でも出来るでしょ。でも、ちょっとやそっとで身につかないのが「読み書き」なんじゃないでしょうか。そして、異国の人と意思疎通するには、日常会話が出来たって意見交換までたどり着かない気がします。観光で行って話す分には十分だろうけど。
 英語に関して言えば、英語で書かれた文章を正しく理解する。この能力を身につけるには、まず単語の知識「語彙力」をつけ、文の決まり=文法を身につけなければ正しい理解はできません。ただの単語の羅列では意味は取れないのです。そして英文で自分の考えを書いたりする、この能力も文の決まりを知らなければ、文を組み立てることも出来ません。会話重視に走るあまり、この「本質」が置き去りにされてるのが現状なのでは?

 たぶん、中教審が焦ってるのは、最近の学力テストでお隣の国の韓国や中国に負けていることも関係してるんじゃないかと。ゆとり教育を始めたことで学力が低下した現状への焦りだけじゃなくて。まあ、負けるはずですよ。確実に日本の子どもは勉強してないもの。テレビで見ましたけど、韓国や中国では学校でも教師が勉強をしっかり教え、なおかつ帰ってきてから塾にも行き、家でももちろん勉強するそうです。そんな国に勝てるわけ無いですよね。小学校では宿題も出ない有様ですからね。
 勉強漬けの毎日が良いとは言いません。でも、一番物事を吸収しやすい時期に、何もしてないのが現状なんです。私の頃なんかは、小学校低学年とかだと漢字ドリルとか計算ドリルとか毎日のようにやらされました。宿題も毎日出てたし。でも、友達と競ったりして一位を争ったり、それはそれで楽しんでやってた気がします。何より、やればやるほどできるようになっていくのが嬉しかった。漢字テストだって毎日あったけど、それが当たり前だと思ってましたし。
 また、中国語関して言えば、英語を比較的覚えやすい言語なんですよね。文のつくりが「だれが」「どうする」「何を」の順で基本が構成されていて、これは英語と同じだったりする。発音も、英語よりも母音の数が多いと聞きます。それに比べ、日本語はまず「だれが」「何を」「どうする」の順で構成されるので、まず順序が英語とは逆になってしまい、そして母音の数も5つしかない。こういうハンデを背負っているのです。
 中国や韓国で英語を習い始める時期は日本と変わりません。これだけの差を埋めるためのことを、日本は果たしてしているのか?とてもしているとは思えないです。まして、「ゆとり教育」なんてものをやってしまいましたし。
 そして、中国や韓国の人たちは、母語をとっても大事にしていますよね。これも今騒がれているけど、いわゆる「愛国心」を非常に強く感じているなぁと。ちょっと強すぎるかな?と思うこともよくありますけど、でも、自分の国に誇りを持っているのは確かです。その上で、世界でも通用する人材を育てている。
 それに対して日本。日本語も日本の歴史もろくに知らない、自分が住んでいる国の県の名前も知らなかったりする中高生。ろくに自分の意見を文章で書くこともできない大学生…。
 
 改めて言いますけど、まず母語の「語学力」を身につけなければ、第2言語においての論理的な思考力や文章構成力は身につけられません。当然ですよね。母語でも出来ないのに、他の言語で出来るわけがない。それは「根本」が無いのと同じで。今の教育は、「枝葉」の部分にばかり目が行き過ぎて、「幹」の部分があり得ないくらいにやせ細っている状態です。
 小学校5年から、週一回程度の「英会話」で「語学力」が身につくなら苦労しないです。週1回でも、必修という形の「強制」になり、今よりももっともっと中学で英語に拒否反応を示す子が増えるのは目に見えてます。そもそも、学校で学ぶ「科目」というのは、子どもそれぞれが持っている「得意なもの」を見つけるための手段でしかないのでは?その中で、自分が興味のあるものや好きだと思うことを見つけて自分というものを知る。その通過点に過ぎないと思うのですが…。必修にしたからと言って、全員が全員「英語」が得意になるわけはないのです。苦手な子まで無理矢理「平均値」まで上げようとする。まあ、この辺は、今の歪んだ「平等主義」に一因があるのだろうけど。

 英語をペラペラと話すうちの旦那。よくこう言います。
「語学っていうのは、会話の部分と文法の部分を並行してリンクさせていかないと本当の意味で出来るようにはならない」
文法で習ったことを、実際会話の中で使ってみて、「あ、そういえばこの間こう習ったな」とか、「あの先生が話してた文ってこういうことだったのか」と思う、そのフィードバックが一番大切だそうです。
 そういう旦那も、英語は中学から普通に習ってます。でも一番土台となった勉強は大学受験だったとか。そこで文法=根本をしっかりおさえて、大学に入って、ネイティブの先生との会話や海外の映画を見たり、ネイティブの人が書いた本などをたくさん読んだそうです。決して中高生の時代はお世辞にも勉強が出来た子どもではなかった人間でも、「やりたい」と思ったら、自在に操ることはできるんじゃないかしら?
 そもそもですね、物事の本質を知るっていうのは、とても面白いことなはずなんです。人間の知的好奇心をくすぐるって聞いたことがあります。男の子とかが、ラジオやおもちゃをバラバラに分解してしまったりするのと同じなんでしょう。日本語や英語における「本質」とは、「文の決まり=文法」に他なりません。文法ばかりだった昔の教育が悪者にされてますけど、決まりを知らないでどうするんですか?って逆に聞きたい。ルールを知らずしてスポーツはできないでしょう?野球のルールを知らずして野球ができないのと同じはずですよね。好き勝手にやってたら、荒川静香さんのように世界の頂点に立つことは出来ないはずです。勉強だってスポーツだって、基本をしっかり抑えなければ、さらに高い所へは行けないんじゃないかな〜。ルールを知ってやるスポーツこそが面白いはず。
 文法が悪いんではありません。文法の面白さを伝えられないことが悪いんじゃないでしょうか。
 
 どういうわけか、昔から「中庸」が良いのは分かってるはずなのに、それが一つに偏ってしまう傾向があるように思えます。
 言語とは「話す」「読む」「書く」で三位一体のもの。これがバラバラに偏って教えられていることが、何よりも一番問題なのでは?


論議を呼んでナンボの話題だと思います。
もっともっと色んな意見が出てきて良いと思うのです。
こういう大事なことを単純に決めていては未来は無いでしょう。
「本当にそれでいいの?」と疑問に思う姿勢は必要だと思います。
こういっている私の意見だって、違う!と思う人から見れば違うんだろうし。
その違いから話し合って大事なことを決めていくのが「社会」なんじゃないのかな?
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Cappriccioso(カプリチオーソ:気まぐれ)ブログです。
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