時は流れても 後編


  
あかねの挙式まであと1週間。
その日、短大に行っていた頃の友人からの誘いで、1日その友人らと遊ぶことになった。結婚したらどこにも遊びに行けなくなっちゃうから、独身最後にみんなで集まって遊ぼう、ということだ。もちろん、あかねは快くその誘いを受けた。
あかねは朝からかなり気合を入れてお洒落した。街のお店のウィンドウに映る自分の姿を見て、少しだけ自惚れしてみた。ショッピング、食事、友人らと過ごすのはとても楽しかった。夜になっても賑やかな街は、あかね達を飽きさせない。そして、夜ともなればお酒が付き物である。あかねの友人の一人は、お店を探して飲み屋の密集する通りを突き進む。普段からお酒を飲まないあかねにとっては、未知の世界という感じであろうか。ワクワクしながら友人らの後をついて行く。少し歩くと友人の1人が容姿のよい男となにやら話しをしていた。
「ねえっ!ココ入ろうよ。いいでしょ、あかね。」
友人の指差す所は、先ほど話をしていた男の働いてる店らしい。少し怪しげな感じもするが、あかね達は店内に消えて行った。


(あれっ?あかねだよなー、どう見てもアレは。あいつ、あそこホストクラブって知ってて入っていったのか?)
店内に消える瞬間、それを目撃した人物がいた。


――店内。
知らずに入ったホストクラブ。あかねの嫌いな軟派タイプの店員がわんさかいる。もう気分は最悪、早く店から出たいと思っていた。それとは対照的に友人らは店員たちの巧みな会話術でかなりご機嫌である。我慢できなくなったあかねは、友人にそろそろ帰ろうと耳打した。まだもう少しいても構わないと、内心友人らは思ったが、随分楽しめたし、あかねの言うことを聞くことにした。
ところが、提示された請求金額を見て唖然とした。それは、普通の女の子が払える額ではないのである。たかがグラス1杯で数万円、ボトルで頼めば数十万円というのが普通の世界。それに容姿端麗な店員が何人あかね達の座ったテーブルについたかわからない。彼らからすれば、何も知らない彼女たちは格好のエサってやつだったのだ。あかねが抗議しても聞き入れられない。友人達は顔が青ざめて怯えてしまっている。
(なんとかしなくちゃ。でも、どうすれば…。)

「こんばんわ〜。」
あかねはハッとした。聞き覚えのある声。振り向くと思った通りの人物がそこにはいた。
らんまだ。
「らんこちゃんじゃない。こんな時間にどうしたのー?」
店員とらんまは顔見知りらしい。あかねは不思議そうにらんまを見る。
「この子さー、うちの店の新人の子なのよねー。なかなか店に顔出さないと思ったら、こんなところで遊んでたなんて。早く来てくれなきゃ困るのよねー。…ね、今日はこの子達、大目にみてよ。お・ね・が・い。」
らんまは店員に甘えた声で話している。あかねはらんまが何を言っているのか意味が分からないでいる。そして、すぐにあかね達は店から解放された。

 
店の外に出るとらんまは開口一番に「バカヤロウ!」と叫んだ。
あかね達は随分反省した様子で、首をうなだれている。そしてタクシーで友人らは各々帰宅し、あかねはらんまが送っていくことにした。
「あ、ありがとう、らんま。その…、どうしてあの店にいるって分かったの?それにどうしてこんなとこにいるの?」
素直に助けてもらったお礼を言うと、疑問に思ったことを聞いてみた。
「おまえがあの店に入ってくのを、たまたま見たんだ。だいたいおまえ、なんでまたホストクラブになんか入ったんだよ!」
「だって、知らなかったんだもん…。」
小さな声であかねはふてくされたように言った。
「だーかーらぁ、おまえはバカなんだよ!ったくよぅ。」
「何よ!どうせ私はバカですよーだ。で、なんであんたが、こんなとこにいんのよっ!」
助けてもらったのに、いつものクセで反抗的になってしまう。
「おまえなぁ、助けてやったっていうのに可愛くないぜ、まったく。俺はな、ここの店で働いてんだよっ」
らんまが指差す所を見ると、そこは先ほどの店から数件先の店だった。どう見てもスナックである。
「あんた、こんなとこで働いてるの?!」
あかねは驚きを隠せない様子である。らんまが働いてるなんて意外で仕方ない。
「お、おう、まあな…。ちょっと待ってろよ、帰るって店に言ってくっから。すぐ戻ってくるからそこにいろよ!」
そう言うとダッシュで店に駆け込んでいった。あかねを送るためにわざわざ早引きしてくれたのだ。そして約束通りすぐ戻ってきた。


――ポツ、ポツ
降り出した雨は、瞬く間に本降りになってしまった。
「うわっ、雨降ってきやがった。早くタクシー拾おうぜ」
すでにバスも走っている時間ではない。通りかかるタクシーを見つけても、どの車も満車の赤いランプが光っている。やはり降り出した雨のせいで、タクシーを利用する人が多いのだ。らんまが手を大きく振っても、タクシーは減速もしないで走り去っていく。
「クソッ!こんなときに限って…。仕方ない、俺の家まで走るぞ。ワリと近いから。いくぞっ、あかね。」
「えっ?家、近いの?」
このままでは、あかねが風邪をひいてしまうかもしれない。そう思い自宅のある方向へ走り出した。


らんまの背中を追って走る。突然らんまが走るのをやめ振り返った。あかねは息をきらしながら問う。
「ここなの?あんたの住んでるトコって。」
2人が立ち止まったところ、それは10階建てくらいのマンションだった。あまりに意外すぎて、あかねは言葉が出てこない。
「とにかく、部屋いこうぜ。」
「う、うん…。」


――らんまの部屋。
広いワンルームの部屋の中はガラーンとしている。家具もほとんどない。あるのはテレビと冷蔵庫とテーブルとベッドくらいだろうか。
「ほとんど寝るだけにしか使ってねえからよー、何も無いんだ。ほれっ、拭けよ。今、風呂沸かすから。」
らんまは、バスタオルをあかねに向かって投げて、バスルームに消えて行った。あかねはポソッと礼を言うと、広い部屋を見回していた。
「ここに1人で暮らしてるの?」
あかねの問いに、バスルームから出てきたらんまは「ああ。」と答えた。冷蔵庫を開け、牛乳を取り出しカップに注ぎレンジに入れる。すぐにピピッと電子音が鳴り、湯気が立ち上る。
「わりぃな、コーヒーとかココアとか暖まりそうなもん置いてないんだ。俺、普段そういうの飲まねーし。牛乳で我慢しろよな。」
「あ、ありがとう。」
一人暮らしの男の家の冷蔵庫なんて、何も入ってないも同じコトだ。まして普段、優雅にインスタントコーヒーをわざわざ作って飲むなんてことはしない。喉が渇いたら、水をがぶ飲みするかスポーツ飲料又は牛乳を飲むくらいであろう。あかねは小さな声で礼を言うと、暖かいカップに口をつけた。

「…ほら、俺って水かぶると若い女のままだろ?歳くっても女に変身すれば若いまま。だから女の格好で働いてんだよ。正直言うとさ、あんな仕事鳥肌が立つほど嫌なんだけどよ、夜の仕事でキツくないのっつったら、あんなんしかねえんだよ。」
らんまは自分のことを少しずつ話はじめた。あかねはらんまを見つめ食入るように話を聞いていた。らんまの口から話は続く…。
「俺の本業は格闘だ。昼間は少し離れた所にある道場で、アルバイトがてら門下生の講師と自分の稽古とを兼ねてやってる。ま、今は少しの間休みもらって、おまえのトコで用心棒してるってわけ。で、帰ってから寝て、夜の仕事に出かけんだよ。道場のアルバイトだけじゃ、おふくろ達養っていけねえしな。ったく、あのスチャラカなクソ親父が少しは仕事すりゃあ、こんな苦労なんてしねえのによ。いつか動物園かサーカスにでも入れてやるぜっ。」
早乙女家の実情。思い返せば、玄馬はよく早雲と将棋をさしていて、働いている気配は全くない。のどかも内職くらいはするだろうが、生活費を全て賄えるかといったら、絶対賄えっこない。あかねはらんまが家計を支えていることを知る。

「夜の仕事って金になんだよ。だからこんなトコにも住めるんだ。どうだ、疑問は解けたか?あっ、夜仕事してんの、親父とおふくろには絶対内緒な。こんなのバレたら、あのクソ親父が俺に擦り寄ってくるの目に見えるからな。おふくろは、また日本刀振り回すかもしれないし…。」
玄馬たちに内緒で夜働いていたのだ。当然金回りの良い仕事をしていると分かれば、あのスチャラカな玄馬が黙っているはずがない。あかねもこのことは内緒にしようと、心に思った。
「分かった、言わない。でも、あのホストと知り合いなの?」
あかねは先ほどの店の店員のことを聞いた。
「ああ、あの辺で働いてりゃー、顔見知りになるって。…だけど、もうあんな店行くなよ。」「うん、もう行かないわよ。あんな店。」
少しずつ、らんまのコトが分かっていく。少しずつ疑問が解けていく。


でも…。
一番聞きたいことが、どうしても聞けない。何度も何度も心の中で叫んだ言葉。

――どうして、許婚をやめたの?


「風呂入って温まってこいよ。着てるものは乾燥機にブチ込んでおけば乾くだろうし。乾くまで俺の着てろよ。そのままだと風邪ひくからな。それに鼻水たらしてる新婦なんてダサいぜ。」

――ドキ…
なぜかとても、らんまの言葉に胸が痛くなった。
「…うん、ありがと。でも覗いたら承知しないからねっ!」
「だ、だーれが覗くか!おまえなんて。さっさと入れよ。」
すぐケンカごしになってしまう2人。しかし、あかねは浮かない表情でバスルームに入る。
(新婦…か。あと1週間で私は…。どうして、私はここにいるのだろう。ここにいなければ、こんな思いしなくてよかったはずなのに。)

ザザザーーーー…
シャワー音が聞こえてくる。らんまはその音を聞きながら、ボーッと窓の外を眺める。所々に街灯の灯りがみえ、そして大粒の雨が降っている。
(…あかね。っちくしょう!)
こんなに近くにいるのに…。あかねは他の男と結婚してしまう。ぶつけようの無い苛立ちが彼を襲う。彼の拳はギュッとにぎられたままである。

――カチャ
「ありがと。温まったわ。らんまも入ってきなさいよ。」
ドアの開く音とともに、あかねの声がする。
「いや…、俺はいいよ、着替えるだけで。」
「何言ってんの。あんたこそ風邪ひいちゃったら困るでしょーが。風邪で道場に来られないんじゃこっちも迷惑だわ。」
あかねは、入らないと言うらんまをお風呂に入れようと、わざとケンカごしに言ってみた。
「このくらいで風邪なんてひかねえよ。ったく、うるせえな。入りゃーいいんだろ、入りゃあ!」
憮然とした態度のらんまであったが、なんとかバスルームに消えていった。あかねの作戦勝ちだ。



キュッ
シャワーを閉め、浴室から出て服を着る。鏡に映った自分の姿をみて思う。
(やっぱ…、女になったほうがいいよな。)
せっかく男の姿になった乱馬だが、あえてまた女の姿に戻ることにした。


「あんた、どうして女になってんのよ。水浴びでもしたの?人がせっかく温まってきなさいって言ってんのに。」
バスルームから出てきたのが、女のらんまだったので開口一番こんなことを言ってしまった。内心、男の姿の乱馬を見てみたいという気持ちもあったからだ。考えてみれば、会ってからまだ一度も男の姿の乱馬を見たことがなかった。5年もの歳月が流れ、乱馬も少しは大人っぽく変わっているのかもしれない。女のらんまは、ショートカットになっている。ということは、男の姿でもショートカットのはずだ。あのトレードマークみたいなおさげ髪を切った乱馬、いったいどんな感じなのだろう。
「なんだよっ、いいだろ別に。ったく、人が気を使ってるのが分からないのかよ。」
「ふんっ。何よ、気を使うって。」
あかねも実際らんまがわざわざ女の姿に戻った理由くらい分かったのだが、ついつっかかってしまう。
「かわいくねえ!」
 
 
……ほんの数秒の間、あかねは5年前の記憶の中にいた。

――逢いたい、乱馬に。

その気持ちが、強くあかねの心を支配する。



「…お願い。男の乱馬に逢わせて。」
小さな声であかねは言った。声が震えている。今にも泣き出しそうな声…。
そんなあかねに驚くらんま。昔からあかねの涙には弱い。あたふたとしながら、急いで台所に行きお湯を出す。
「な、なんだよ。じゃあ、待ってろよ。…アッチーーーッ!!」
焦りのあまり熱湯を浴び、熱さのあまり叫ぶらんま。


「アチチチ、どうだ、これで文句ねえだろ?」
!!
乱馬は驚いた。自分の懐にあかねが飛び込んできたのだ。顔は見えないが、声を押しつぶし肩を震わせて泣いている。

どこか懐かしい感覚であった。


乱馬はおそるおそる、あかねの背中に手を伸ばす。暖かい…。小刻みに震える背中、そっと手を添える。そしてもう片方の手は、あかねの髪に触れる。長い沈黙。
乱馬は何かの歯止めを吹っ切ったように、あかねを強く抱きしめた。あかねの髪からはほんのり甘い香りが漂ってきた。そしてあかねの耳元でささやく。

「抱きたい…」
あかねの体がピクッと少し反応した。そしてコクンと小さくうなずき、体を乱馬に預けた。



5年という歳月が少女を大人に変えた。
5年という歳月が少年を大人に変えた。
薄れゆく意識の中で、あかねはやさしく何かをささやいた乱馬の言葉を聞いた。
その言葉は目覚めと共に、記憶の片隅に封印されてしまった。




――早朝。
まだ外は暗い。あかねが目を覚ますと、乱馬の声がした。ずっと起きていたらしい。
「…悪かったな。その…、初めてだと思わなくて。」
乱馬は申し訳なさそうに話をする。もちろんあかねの顔は見れない。
「いいの…」
(最初は1番好きな人としたかったから…)
ポソッと答えるあかね。心の中で言った言葉は絶対内緒。

気まずい雰囲気が流れる。

「送っていくよ。」
「いい。」
あかねは乱馬の申し入れを拒否した。そしてまだ薄暗い中、乱馬の部屋を後にした。



(…後悔なんてしてない。)
あかねは、そう心に思った。瞳からは今にも零れ落ちそうな涙がたまっていた。

 
 
 
 
 
あかねの挙式まであと3日。あの日から、天道道場で2人の会話はほとんど無くなった。気まずさもあるだろう。ただ、どちらかというと、乱馬のほうが極端にあかねのことを避けている。理由はどうあれ、あかねはとても辛い気持ちだ。
(今日も何も話さなかった…。)
乱馬が帰った後、あかねは部屋でため息をついた。


――トントン
「あかねさん、入りますよ。」
それは、あかねの結婚相手だった。挙式も間近ということで、いろいろ打ち合わせ等で家に来ている。取り留めもなく会話をするが、相づちは打つものの、あかねはどこか気が重い。


突然であった。男があかねの肩を抱き寄せ、唇を重ねてきたのだ。
あまりに突然すぎて驚くあかね。
結婚するのだから当たり前なのかも、と一瞬思う。でも…フッと乱馬の顔が浮かぶ。
(…乱馬!)

「おーい、あかねー。ちょっといいかねー。」
1階で早雲の呼ぶ声が聞こえた。あかねは結婚相手の男を突き飛ばした。目には涙を溜めている。
「ご、ごめんなさい。お父さんが呼んでるから。」
あかねは逃げるように部屋を後にした。
「あかねさん…。」
男は一人部屋に取り残され、残念そうに肩をおとした。



深夜。
あかねは今日のことがあってか、どうしても寝付けない。
自分は結婚するというのに、どうしてこんなに悩むのか。考えれば考えるほど乱馬のことを思い出す。
もう一度会いたい。会って話がしたい。
そしてあかねは思った。
聞きたくても怖くて聞けなかったこと。どうしても聞きたい。


――どうして許婚をやめたの?

気づくとあかねは外に飛び出していた。この道を行けば乱馬に会える…。そして会って聞こう。
そうでないと、自分はずっと前に進めない。


 
 
 
(来ちゃった…)
あかねは乱馬の住むマンションについた。
思い切って呼鈴を鳴らす。こんな夜中に迷惑だとは思うが、やはりココまで来てしまった以上後には引けない。だが、2〜3回呼鈴をならしてみたが全く応答がない。乱馬のことだ、きっと爆睡してしまっているに違いない。そう思うと、ここまで来た自分がなんとなく情けなくなった。とぼとぼとマンションを後にする。
と、前方から人影が見える。
「乱馬!」
突然自分の名前を呼ばれて驚く乱馬。しかし、呼んだ相手があかねだと分かると、急いで近寄ってきた。
「こんな時間に何やってんだよ!」
こんな夜中に、しかもあかねがいるのだから驚きも相当だろう。乱馬は夜の仕事の帰りであった。
…あかねの返事は無い。どうしたのかと聞いても、何も答えずうつむいているばかり。あかねの顔を覗き込むと、目を真っ赤にしている。
とにかく部屋に行こう、とあかねを促した。


――見覚えのある部屋。相変わらず殺風景であった。乱馬はあかねを玄関に入れると、そこで話を聞くことにした。それ以上、入れるわけにはいかない。もし、入れてしまったとしたら…。また自分が押えられなくなってしまいそうで、あかねをそこより先には行かせなかった。そしてあかねも、それ以上は入ろうとはしなかった。

「いったい、どうしたんだ?」
うつむくあかねに問う乱馬。
……沈黙は続く。
あかねは、ここまで来たのに何も言えずにいた。婚約者から口づけされたときも乱馬のことしか思い出せなかった自分。そして、あのことを聞きたくても聞けない臆病な自分。何て言ったらいいのか分からなかった。とても自分が情けなくなった。
「なんでもないの。もう帰るね。心配かけてゴメン…」
あかねはクルッと背を向けてドアに手をかけようとした。

と、その時。
自分を背後から大きな腕が抱きしめてきた。逃れられないくらい強い力で。


「抱かなきゃよかった…」
乱馬の言った意味がよく分からない。だけど、それはきっと先日のあのこと。

(私を抱かなきゃよかったって…そう言ったの?乱馬。)
「そ、そうだよね、私ってかなり迷惑かけたよね。ごめんなさい…」
言葉が緊張で上ずっていたが、最後の方は蚊の鳴くくらいの小さな声で聞き取れないほどであった。

「そうじゃなくて、抱いちまったから、…抱いちまったからおまえのこと忘れられないんだ。誰にも渡したくないんだ。なんで、あんな野郎と結婚すんだよっ!クソッ!!」
今まで溜まってた鬱憤を吐き捨てるように、彼はあかねに投げかけた。



「…どうして許婚やめたの?」
 
あかねは、今まで聞けなかったことをついに聞いた。

「おまえは親が決めた許婚とすんなり結婚してもよかったのか?」
乱馬の意外な問いにあかねは戸惑った。もちろん、最初は親が勝手に決めた許婚。誰がこんなヤツと、って思った。しかし、月日が流れ、お互い意識しあうようになった。
「俺は、いくら親が勝手に決めたからって、はいそうですか って結婚すんのはイヤなんだよ!だから許婚ってことを無しにして、その…ちゃんとおまえと…。でも、ほらそん時俺金ねえし、やっぱ働かないとって思ったわけ。それに完全に男に戻ってからって思ったし。ま、中国には行けず、結局そのままズルズル5年も経っちまったけどな。」
少々口ごもりながらも、乱馬はやっとの思いで今までの想いを伝えた。あかねはジッと聞いてきる。
「だけど、ある日おふくろから聞いたんだ。あかねが自分で決めた男と結婚するってな。正直驚いたさ。今まで自分で男決めるなんてしなかったおまえが。…だから俺はおまえを諦めた。どんなヤツかは知らないが、おまえの決めた野郎ならってそう思った。」
最後の言葉を振り絞るように彼は言った。
「だから、もっと幸せそうな顔しろよ。してくれよ!」
あかねの体を強く、強く抱きしめた。そして、その腕を解き乱馬はあかねから離れた。
「もう帰れ…。もう来るな。」
乱馬はあかねの背中にささやいた。


「いつも…いつも助けに来てくれたじゃない!どうして今度は助けに来てくれないのよ!どうして…」
あかねは乱馬の目を見て泣き叫んだ。
「助けにって、おまえが決めたんだろうが!それに俺は昔みたいに許婚でもない。どうこう言える立場じゃないだろうが!」
……一瞬の沈黙。
お互いに言いたいことを吐き捨てた。今まで胸の奥にしまっていた想いまで…。
「…私、本当は結婚なんかしたくない。結婚なんか…。だけどお父さんを早く安心させてあげたかったの。お見合いしたらとっても嬉しそうだった、お父さん。」
あかねの瞳から止め留なく流れる涙。
「乱馬から許婚やめたいって言ったんだって知って、ショックだった。嫌われたんだって、そう思った。だから忘れようと思った。だけど、忘れられなくて…、心の中でずっと乱馬が帰って来るのを待ってたの。」
あかねから聞かされた言葉に愕然とする。今までジッと耐えて我慢してきた自分は何だったのか。

乱馬の中で何かがはじけた。もう、ウジウジ考えても仕方ない。前向きに行こう!これが本来の彼の本質である。

 
「イヤならやめればいいだろ。結婚すんの。」
サラッと言った彼の言葉に、あかねは目をパチクリさせた。
「今から俺と付き合う、これで決まりな。明日結婚断れよ。…返事は?」
あかねは呆けてしまって言葉が出ない。
「おい!聞いてんのか?返事は?」
「う、うん。」
「おーし、じゃ決定な。絶対断れよ、分かったな。…と、いうことで、よろしくなあかね。」そう言って人差し指でチョコンとあかねのおでこに軽くタッチする。
「えっ?」
いきなりのことで、すっとんきょうな声を出してしまった。
「えって、今から俺たち付き合ってんだぜ。おまえ相変わらずそういうトコ鈍くさ過ぎだぞ。」
言葉はキツイが表情は優しい。自信にも満ちている。
あかねへの気持ちを押えて苦しんできた自分が、今となっては恥ずかしい。なぜ無理やりにでも婚約者から奪い取らなかったのか、それだけは後悔している。何も考えずにただ無我夢中だった16歳のころ、あの頃のようにどんなことがあってもあかねを奪還しに行ったのが懐かしい。若い頃は出来たことなのに…。自分も歳をとったんだな、と少し笑って見せる。
「何よ、1人でニヤニヤしちゃって。気持ち悪いわね!」

フワッ

急に体が宙に浮く。
大きな腕に抱え上げられて、あかねは身体の自由を奪われる。
「俺と付き合うの嫌なの?」
乱馬は笑顔で問う。
「嫌なわけ…ないでしょ。よろしくね、乱馬。」
少しはにかみながら、彼の厚い胸板に顔をうずめる。幸せそうな笑みを浮かべるあかね。



夜の闇が優しく2人を包みこむ。
今日こそ本当の意味で心も体もひとつになった2人。
この幸せをいつまでも…。
そう願いながら夜は明けていった。




――翌日。あかねは2日後に控えていた結婚を断った。

晴れて付き合うことになった2人。でも、そのことはまだ誰も知らない。

5年ものブランクを乗り越え、新しい時を刻んで行く2人。きっと、きっと幸せな未来が待っているだろう…。


「今度ご飯作りに行ってあげよっか♪」
「胃薬用意して待ってるよ」
「ちょっと、何よそれ、どういう意味よ!?待ちなさ〜い、乱馬ーー!」


爽やかな風に乗って、幸せそうな会話が聞こえてきた。


 
時は流れても  完
 
 

 
『桜湯』へ続く――

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